例の事件関係

 福島民報に電話「秋葉原と同じことやる」スポニチWeb版2008年6月11日)

 11日午前11時半ごろ、福島市太田町の福島民報社に若い男の声で「秋葉原の事件と同じようなことをやる」と電話があった。同社から通報を受けた福島署がJR福島駅前を中心に約30人態勢で警戒したが、異常はなかった。(後略)

 俺ではありません,為念。

   ◇

 「私は愛が欲しい訳でも、愛して欲しい訳でもないのです。精一杯、誰かを愛したい…。愛してる証が欲しいのです」

 ……と,被疑者は書いていたらしい(孫引きだが)。ホントかよ,とも思うのだが,彼女がいないことを引け目に感じていたとか何とか。それがこの事件の直接の原因というのは違うだろうが,こういう土壌もあったということは,関係の強度はともかく,まあそうなのだろう。


 似たようなことを思っていたものだ。一瞬,私ももうひとりの加藤になるんじゃないかと思ったが,すぐにそれは否定された。

 加藤側に堕ちた分水嶺は,「誰かを愛したい」は,「愛する」ことそのものが重要で,その主体の自分こそが中心,それ以外の者は,たとえその相手であろうとどうでもいい存在である(だから「誰か」は,極論,誰でもいい)という点ではないかと。「あなたが探していたのは 私の今夜の愛じゃなく/誰かを愛していた頃の/キラキラ 光るあなた」(『つめたい別れ』[中島Sg.17−1,1985]より)と言えばカッコはいいが,今回のはシャレにならん。

 誰か,具体的な人は見えていなかったのかなあ……?

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 とはいえ,そういやナカジマ*1にも「もしも私に勇気があれば ここで貴方を殺したかった/あの娘にあげる心はあげる せめて私に命をほしい」(『それ以上言わないで』[中島Al.13−4,1985]より)なんていうバイオレンスなのがあったな……。近代の恋愛ってのは,自我が極大に肥大するというのは,あるいは案外正しいのか。

*1:私の話で「ナカジマ」「御師匠」等と出てきたた場合には,中島 みゆき嬢(missの直訳)のことを指すので,為念。蓮實 重彦元総長の「そもそも愛読書というものは,好みの異性の性器のごとく,むやみに開陳するものではないのです」という言葉を知って以来,読んでいる本や,聴いている歌について話すことが恥ずかしくて声が小さくなる私。